太秦広隆寺(京都)

パワースポットめぐり -京都 太秦広隆寺-
聖徳太子信仰、国宝・弥勒菩薩、京都三大奇祭
広隆寺 (こうりゅうじ)
別名:秦公寺(はたのきみでら)
京都府京都市右京区太秦蜂岡町32
太秦(うずまさ)、地名を冠して「太秦広隆寺」とも呼ばれる。
路上を走る電車、嵐山線の駅名が「太秦広隆寺」なので名所めぐりでも駅名で探して、駅を降りて目のまえに位置するのでアクセスも容易である。
聖徳太子信仰で七大寺の一つ。彫刻としては国宝第1号となった「弥勒菩薩半跏(みろくぼさつはんかしゆい)像」を本尊とし、真言宗系単立の山号を蜂岡山。蜂岡寺(はちおかでら)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などの別称があり、京都三大奇祭の10月10日に行われる「太秦の牛祭」が有名。
あきませんか!?
まだまだ底冷えの寒さがつらい2月の中旬、寒さも一休みした今日、梅の枝からは春を待ちきれず京の都に芽吹いておりました。
さすがに関東より、春の訪れが早いのでしょうか、京都に住んで初めて春を感じた休日の一日。
北海道で-30℃以下を経験している私でも、連日の京都の底冷えというやつは堪えます・・・北海道は部屋の中でもTシャツ1枚で、コタツでアイスを食べるというのが冬の日常でしたが、京都→部屋ん中(さむぅ…)では、もっぱら熱渋緑茶と豆大福にハマっております。


今日は本当に暖かい^^。ということで広隆寺へいざ!
嵐電の車内では「国宝第1号の弥勒菩薩が安置されてます。太秦映画村はこちらからどうぞ」というアナウンスが流れてくる。「太秦広隆寺駅」を降り、道路を挟んで目の前が仁王門(南大門)。
表の仁王門には二対の仁王様が、「ナニシニキターッ」と云わんばかりに、シャッターを斬る私を睨みつけます。仁王門を進み境内に入ると、太秦の町の喧騒が一瞬消えたかのように静寂に包まれました。
気がつけば出発してから1時間ほど経ったのでしょうか、電車を降りて外気に触れたとき、車内がぽかぽかだったせいでしょうか“ブルッ”とするくらいの寒さ…途端に薄雲も掛かってきました。
境内に入ったくらいから急に寒気の風が吹きはじめ、だんだんそれが強く頬を刺してきました。やっぱりまだ冬真っ只中。
カメラ片手にアングルを変え、距離を測りながらシャッターを斬り続けていると
ひらり、ひらり・・・“雪”です。
季節の変わり目を感じさせる気候の変化、そして京都で初めて体験する“雪”
一日で春を感じ、京都の雪も体験・・・なんと風流な。これぞ京都




奥へ奥へと進み、拝観受付までくると、受付嬢のおばちゃんから
「なかは撮影あきませんよー」と言われ、
「あきませんか?」とつられて覚つかずの関西弁で返してしまった。
ということで国宝第1号の「弥勒菩薩」もこちらの切手でご勘弁ください。
広隆寺(こうりゅうじ)は、聖徳太子建立の七大寺の一つにあたる
法隆寺、法起寺、中宮寺、橘寺、四天王寺、葛木寺、そして広隆寺である。
太秦一帯に住んでいた帰化人系の氏族である秦氏(はたし)(※)の氏寺、平安京遷都以前から存在した京都最古の寺院
「太秦(うずまさ)」という地名は・・・
聖徳太子が広隆寺を建てるよう指示した人物、秦氏の長であった秦 河勝(はたのかわかつ)の名からちなんだという説と、秦氏が雄略天皇に、うず高く積まれた絹を献上したことにちなむ説がある。
※ 秦氏(はたし)
移住してきた帰化朝鮮人(渡来人)の巨大氏族
秦氏は、葛野川(現在の桂川)流域に移住し、持ち前の優れた先進的な土木技術を駆使して、葛野一帯を田園地域に変えたといわれる。養蚕や機織技術を発達させ、うずたかく絹を積んで朝廷に献上したという産業地帯を生み、その地域は「太秦(うずまさ」と称されるようになる。
国宝第一号の「弥勒菩薩像」も、朝廷に貢献した秦氏が、聖徳太子から譲り受けたものと知られる。
元々は朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来し、大和王権で活動した豪族。
秦氏は農耕と機織の産業の礎となり貢献した。
景教(キリスト教)を信仰するユダヤ人一族であったとする説もある。
そしてそれを裏付けるかの如く、嵐電「太秦広隆寺」の隣りの駅には「蚕の社」があり、木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)という神社があります。そこには「三柱鳥居」がありダビデの星のマークが三角形を重ねた形とされています。
そこは織物の始祖を祀る蚕養(こかい)神社があることから蚕の社(かいこのやしろ)と称されている。
次回「木島神社(蚕の社)」へつづく
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